2014年01月02日

長崎から台湾大学へそこへ現れたスカウト


「最初はラグビー部に入りたかったんです」と佐田はサッカーと出会った中学生時代を振り返る。ところが、佐田のいた中学校にはラグビー部がなかった。やむなく、「ラグビーと似ている」というサッカー部へと入る。その後、サッカーの名門?長崎南山高校へ進学し、才能を開花させる。

「杉山隆一さんに憧れていたのでポジションは同じく左ウイング。僕は右利きだったんだけど、意外にやりやすかった。ボールをもらって中へとドリブルで切り込んでシュートニューバランス 1400。これが得意なプレーだったね」

 今風に言えば逆足のウイングでカットインが持ち味。実は羨望の的だった杉山も利き足は右。昔の映像を確認すると、メキシコ五輪3位決定戦での釜本邦茂のゴールは、彼の右足のクロスから生まれている。

 佐田は全国大会出場こそ叶わなかったものの、長崎県選抜に選出されるまでになる。ところが、その後のキャリアとして日本の大学や実業団へは進まず、台湾大学を選択。「中国語を勉強したかった」のがその理由だが、「実は…」と後日談を明かしてくれた。

「高校を卒業して2年後くらいですか。ヤンマー(後のセレッソ大阪)と三菱(後の浦和レッズ)、それと古河(後のジェフ千葉)から話があったことが発覚したんです。酷いことに父と兄が僕に無断で勝手に断っていました(笑)。

『お前は高校のときから台湾に行くって言ってたからアディダス スニーカー、断っといたよ』と言うんですけど、『えー!! 何それ!?』って思いましたよ。別に台湾行きを後悔しているわけではないですが、ちょっとがっかりしましたよね(笑)」
posted by wanerbener at 15:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

海外プロ第1号の実兄はなんとあの「さだまさし」



 かつては海外へ日本人選手が移籍するだけで異常なまでの注目が集まり、“海外組”として何か特別な存在であるかのように扱われるようなことも少なくなかった。だが、今や海外移籍は珍しいことではない。スポットライトは“海を渡る”から“いかに活躍するか”に移っている。

 日本人選手のレベルが右肩上がりに上昇していったのはニューバランス 574、海を渡った選手たちが自分の経験を伝えていったことも大きな要因だ。では、その伝道師のパイオニアは一体誰なのだろうか。歴史を紐解くと、ある人物に辿り着く。

 その男の名は佐田繁理(しげり)。奥寺康彦がブンデスリーガへ移籍するより2年早い1975年、香港リーグでプレー。日本人選手初の海外組になると同時に、日本初のプロサッカー選手となった。

 この佐田という男、実は歌手さだまさしの実弟にあたる。現在の本業は兄のコンサートの演出の総指揮、そしてプロデュースなど。長きにわたり、兄さだまさしを陰ながら支え続けている。

 また本業とは別に、佐田は現在FCエルマーノ那須という中学生年代のクラブのオーナー?代表も務める。午前中に試合を観て、午後は大急ぎで兄のコンサートにニューバランス 996駆け付ける、といった強行スケジュールもしばしばあるようだ。現在もサッカーにどっぷりと浸かっている佐田だが、そもそもの出会いはいつだったのだろうか。話は約50年前に遡る。
posted by wanerbener at 15:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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