2014年01月03日

2013年大晦日、『あまちゃん』の

 2013年大晦日、『あまちゃん』の”幻の157話”が紅白歌合戦の中で15分間登場し、多くのあまちゃんファンを感激させた。そこで披露された楽曲のすべてを手がけ、“あまちゃんスペシャルビッグバンド”のメンバーとして演奏にも加わったのが音楽家の大友良英。フリージャズやノイズ?ミュージックの鬼才として早くから知られ、現在は世界を股にかけて演奏活動を行っているミュージシャンだ。近年では自らの演奏活動に留まらず、映画やテレビドラマの劇伴も多数手がけ、ニューバランス スニーカーこれまでに参加した作品は300作以上。実験音楽だけでなく、あらゆる音楽に精通していることでも知られている。
あまちゃん音楽のハイブリッド性
 そんな大友のスペシャルラジオプログラム『大友良英?ハイブリッド音楽館~世界も音楽もひとつなんかじゃないぞー!』が2014年1月1日午後2時からNHK-FMにて、2時間45分に渡って放送された。この番組は、世界の様々な音楽と音楽が混ざり合うことで出来た“ハイブリッド音楽”を、大友と大友の盟友であまちゃんビッグバンドのメンバーでもあるドラマーの芳垣安洋、そして首藤奈知子NHKアナウンサーの3人で紹介していく特別番組。普段テレビやラジオで流れることのない音楽が語られる、懐の深い音楽プログラムとなった。

 音楽は“半端にどこかに所属していない、どこにも居場所のないもの”こそが面白いという大友。ブラジル発祥のサンバから中華音楽、そしてそれらの要素がすべて含まれるという中村八大作曲の坂本九の代表曲『上を向いて歩こう』まで、各ジャンルの中でも異彩を放つ音楽が次々に紹介された。例えば、アルゼンチンの作曲家アストロ?ピアソラの『孤独の歳年』(指揮、バンドネオン:アストル?ピアソラ/バリトン?サックス:ジェリー?マリガン)。タンゴ界に革命を起こしたと言われるピアソラの音楽はまさに大友のいう“ハイブリッド音楽”。彼は伝統的なアルゼンチンタンゴに、クラシック、ジャズ、そして今でいうロックの要素を掛け合わせ、全く新しいタンゴの概念を作り出した異才だ。大友は『孤独の歳年』を「タンゴかといえばタンゴではないし、ジャズかといわれればジャズではない。ドラムセットも入ってるけど、ロックでもない。映画音楽みたい」な曲と解説し、聴き手もタンゴというバイアスをかけずに聴くことで、ただ良い音楽だと感じられるのではないかと語った。

 「音楽は『固定していく』ことと『変化していく』こと、両方があるからこそ面白い」と話す大友は、『あまちゃん』のサウンドトラックに使われた『希求』を作るうえで、このピアソラの手法を意識したという。『希求』は大友が“(橋本愛が演じた、主人公アキの親友)ユイのテーマ”と呼ぶ一曲。「似たようなコードがぐるぐる終わらずに、でも先に進んで行く」曲構成が、誰よりも東京に行きたいのに行くことができないユイの葛藤とオーバーラップしていったとか。「きっとピアソラ自身も『孤独の歳年』を作る上で、(その後ピアソラに同様の作風が見られないことから)本人はなんか違うんじゃないかと思っていたのではないか」という大友だが、その迷い道のなかに真実があるような気がするのだという。『あまちゃん』の劇中でもユイが誤解を受けやすかったり、“めんこいほう”というバイアスをかけられ続けて“面倒くさいユイちゃん”をなかなか出せなかったことを考えるとニューバランス レディース、ピアソラの音楽というバッググラウンドの上に作られた『希求』が、より物語とともに生きてくる。大友の劇伴作家としての想いが垣間見えるエピソードだ。

 大友は音楽が“ハイブリッド”していくのは一瞬のことなのだと語り、『あまちゃん』はもう去年のことだと言いきる。「今年は今年で面白いことをやりたい」「盆踊りとかやりたいんですよ」と楽しそうに話す彼曰く、「民謡って固定した昔のもんだって思っちゃうけど、作っていっていいんですよ、自分たちのやり方で盆踊りを作りたい」のだそう。大友良英の“音楽の実験”は、今年も幅広く花開いていくことだろう。
posted by wanerbener at 18:12| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2014年01月02日

長崎から台湾大学へそこへ現れたスカウト


「最初はラグビー部に入りたかったんです」と佐田はサッカーと出会った中学生時代を振り返る。ところが、佐田のいた中学校にはラグビー部がなかった。やむなく、「ラグビーと似ている」というサッカー部へと入る。その後、サッカーの名門?長崎南山高校へ進学し、才能を開花させる。

「杉山隆一さんに憧れていたのでポジションは同じく左ウイング。僕は右利きだったんだけど、意外にやりやすかった。ボールをもらって中へとドリブルで切り込んでシュートニューバランス 1400。これが得意なプレーだったね」

 今風に言えば逆足のウイングでカットインが持ち味。実は羨望の的だった杉山も利き足は右。昔の映像を確認すると、メキシコ五輪3位決定戦での釜本邦茂のゴールは、彼の右足のクロスから生まれている。

 佐田は全国大会出場こそ叶わなかったものの、長崎県選抜に選出されるまでになる。ところが、その後のキャリアとして日本の大学や実業団へは進まず、台湾大学を選択。「中国語を勉強したかった」のがその理由だが、「実は…」と後日談を明かしてくれた。

「高校を卒業して2年後くらいですか。ヤンマー(後のセレッソ大阪)と三菱(後の浦和レッズ)、それと古河(後のジェフ千葉)から話があったことが発覚したんです。酷いことに父と兄が僕に無断で勝手に断っていました(笑)。

『お前は高校のときから台湾に行くって言ってたからアディダス スニーカー、断っといたよ』と言うんですけど、『えー!! 何それ!?』って思いましたよ。別に台湾行きを後悔しているわけではないですが、ちょっとがっかりしましたよね(笑)」
posted by wanerbener at 15:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

海外プロ第1号の実兄はなんとあの「さだまさし」



 かつては海外へ日本人選手が移籍するだけで異常なまでの注目が集まり、“海外組”として何か特別な存在であるかのように扱われるようなことも少なくなかった。だが、今や海外移籍は珍しいことではない。スポットライトは“海を渡る”から“いかに活躍するか”に移っている。

 日本人選手のレベルが右肩上がりに上昇していったのはニューバランス 574、海を渡った選手たちが自分の経験を伝えていったことも大きな要因だ。では、その伝道師のパイオニアは一体誰なのだろうか。歴史を紐解くと、ある人物に辿り着く。

 その男の名は佐田繁理(しげり)。奥寺康彦がブンデスリーガへ移籍するより2年早い1975年、香港リーグでプレー。日本人選手初の海外組になると同時に、日本初のプロサッカー選手となった。

 この佐田という男、実は歌手さだまさしの実弟にあたる。現在の本業は兄のコンサートの演出の総指揮、そしてプロデュースなど。長きにわたり、兄さだまさしを陰ながら支え続けている。

 また本業とは別に、佐田は現在FCエルマーノ那須という中学生年代のクラブのオーナー?代表も務める。午前中に試合を観て、午後は大急ぎで兄のコンサートにニューバランス 996駆け付ける、といった強行スケジュールもしばしばあるようだ。現在もサッカーにどっぷりと浸かっている佐田だが、そもそもの出会いはいつだったのだろうか。話は約50年前に遡る。
posted by wanerbener at 15:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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